芝浦発“日本初!”(前編)

港区芝浦地区の海沿いにある区立公園。
“パッと見”は普通の児童公園だが、この公園には“日本初”を記念する碑が二つもある。
今回のよりみちスポットは”日本初が二つある公園”の前編。

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JR田町駅芝浦口(東口)から、『港区コミュニティバス(通称:ちぃばす)』の芝浦港南ルートに乗車して約14分、埠頭公園入口で下車すると道路を挟んで右前方に「埠頭公園」がある(港区海岸三丁目14番34号)。
面積は8,935.27平方メートル。
管理は港区役所・協働推進課土木係 (TEL:03-6400-0032)。
昭和39年8月に開園した公園だ。

バス停から通りの向こう側を眺めると、フェンスに囲まれた野球場が見える。『港区立埠頭少年野球場』だ。
 
球場外観
<客席数は100、ナイター可能な照明も完備。>

ここで問題。「日本初のプロ野球チームは?」

たいていの人が『読売ジャイアンツ』、少し詳しい人ならその前身である『大日本東京野球倶楽部』と答えると思うが、実はどちらも不正解。

“現存する”プロ野球チームで一番歴史が古いのは読売ジャイアンツだが、“日本初”は『日本運動協会(通称:芝浦協会)』だ。
芝浦協会の設立は1920年、大日本東京野球倶楽部の設立は1934年。

当時日本で人気実力ともに一番だったのは大学野球で、人気選手はスター扱いだった。
なかには学業をおろそかにしたり、不祥事を起こしたりする選手もいたため、「学生たちの模範になるようなプロ球団を作る」という理念のもと、芝浦協会は設立された。

   発祥の地の碑
<上の写真の右側、トイレの脇にひっそりと置かれている。>

協会設立の翌年、本拠地となる芝浦球場が建設され、選手の公募も行われた。

ちなみに球団設立後の約1年は対外試合を行わず、練習と勉強(英語・数学・簿記など)を行っていた。これは「大学選手と対等な学力、社会常識がなければプロ野球を世間に認めさせることができない」という考えがあったためだ。

その後はアマチュアチームや学生、2番目のプロ球団『天勝野球団』との試合など順調に活動していた。
ところが、1923年の関東大震災の際に芝浦球場を救援物資の集積場として徴発されることとなったため試合の続行が不可能となり、1924年に協会は解散。
その後芝浦球場も閉鎖された。

なお公園内に少年野球場があるのは、芝浦球場跡地だということにちなんでいる。

次回は芝浦にまつわる、もう一つの“日本初”をご紹介する。

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